

基調講演では書院研究の意義とその射程範囲を概括し、今後の書院研究の方向性を提示した。
まず対象地域である東アジアを「中国を“文化的”中心として直接の交渉をもっていたアジア東部の諸地域」として、いまの中国、台湾、韓国、北朝鮮、ヴェトナム、日本(琉球をふくむ)を措定し、漢字文化圏に属することを確認した。
書院(民間の学校)とは近世において、知的伝統やモラルを形成した拠点である。これまで個別地域の書院研究はおこなわれてきたが、東アジアを横断する広い視野からの研究はまだなされていない。そこで、東アジア地域における書院の教育機能の総合的な研究によって、東アジアの伝統的教養がどのように形成され、展開したのかを解明する。
具体的には書院の施設、運営方法、講学の形式と内容、さらには学派の形成、国家教学との関係などを東アジアにおける文化交渉の視点にもとづいて、各地域・分野の研究者との共同で分析する。それは今にいたるまで各地域の人々が保有しつづけている「らしさ」の解明という現代的意義もある。
研究をおこなう上での留意点は以下のとおり。1)教育方針をしめす学則、2)国家教学との関係、3)読み書きを中心とする庶民教育、4)儒教との関係、5)近世の書院の歴史的位置を明確化するために古代、中世における教育にも留意する、6)近代的変容、7)泊園文庫の調査、8)東アジアの研究者との連携
報告は二つの部分に分かれている。前半では、主に東アジアにおける書院研究の状況及びそれぞれの特徴について述べられた。中でも、中、日、韓の書院の沿革及び現状をめぐって、藤樹書院などの具体例を挙げつつ詳しく述べられ、儒学を主とした文化交渉の媒体として、書院が大きな役割を果たしたことを示した。後半では、清末に起こった中国教育体制の改編によって、書院の果たす役割の変化を踏まえた上で、「萌芽期」、「衰退期」、「隆盛期」と三つの段階に分けて、民国初期から現在に至る書院研究の実態を詳らかに紹介した。中国のみならず、書院研究の勃興は八十年代以降の東アジア諸国に見られる共通現象であり、書院による東アジアにおける文化交渉研究の可能性を大きく含んでいることを示唆した。その際、ベトナム、シンガポール、インドネシア、マレーシアといった、何らかの形で儒教文化の影響を受けた東南アジア諸国も視野に入れるべきことが示された。
報告ではまず韓国における書院の成立と推移について、特に官学である成均館・郷校との違い、そして祭祀機能に特化された祠宇と書院との関連性が示された。16世紀中葉以降の各地での書院・祠宇の建立の動きは、粛宗期(在位1674-1720)に頂点に達し、19世紀中葉には900ヶ所を超えるまでに至る。その一方、それは近代以降、朝鮮時代の書院を否定的に評価する論拠ともなった。植民地期はもちろん、独立回復後もなお書院は両班・党争と共に社会発展の阻害要因とみなされてきたが、1960年代後半以降の「内在的発展論」や1980年代以後の関連資料の整理等により、書院研究は著しい発展を遂げる。ただし古文書資料を利用した個別書院の研究や、朋党の力関係に偏重した社会・政治史研究は、いずれも韓国書院の全体像・構造的理解を描くには限界がある。今後はそれらの研究を通史的・体系的に統合してゆくことにより、さらなる発展が期待できよう。
本文ベトナム語で書院(Thư Viện)は、図書館の意味であるが古語には見られない単語のようだ。科挙制度は陳朝期(13-14世紀)に本格的に始まったと考えられ、黎朝15世紀に学校制度とともに整備発展し、阮朝嗣徳帝期(19世紀末)には全国7カ所で行われるようになった。阮朝期の試験自体は3年に1度行われ、各地方で郷試が行われ、中央で会試・廷試験が行われ、1919年まで続いた。村落レベルでは黎朝後半期には学校を建てる活動が盛んであったようで、村の科挙受験者、合格者が構成員となる斯文会、科挙合格者を祀る文址などが存在した。そして、科挙下位レベルの合格者(一場、二場、秀才)が自宅で漢文教育を行ったり、帰郷した科挙官僚などが郷学を開くこともあった。教科書には「三字経」「幼学五言詞」や「啓童説約」などが用いられていた。また、19世紀にはハノイで科挙官僚が私塾を開き、それが東京義塾に系譜的に接続することも確認されている。
岳麓書院(現湖南大学岳麓書院)の沿革に焦点を絞って以下の内容での講演が行われた。宋の時代に開院された岳麓書院は、時代が変わっても、常に中国「四大書院」の一つに数えられるほどの名門書院である。特に中心的教授であった張栻と来訪した理学の開祖でもある朱熹との間に繰り広げられた「朱張会講」を期に、書院が隆盛を極めた。朱張の学を王道とした書院は後に陽明学や漢学も取り入れつつ地位を不動のものにし、清王朝からの経済支援を得られるまでに成長するも、1903年の教育改正で湖南高等学堂に改編されるプロセスを経て1926年に湖南大学となる。清末における岳麓書院は、儒学だけでなく、洋学の伝授にも力を注ぎ、王夫之、魏源などの中国近代史に足跡を残した人物を輩出した。1979 年、湖南大学が中国の伝統的思想文化を研究させるべく、岳麓書院を修復し、書院文化研究所を設立した。現在では、優れた研究業績の有する教授陣を誇り、博士課程も設けられ、確固たる研究機関に成長している。また、「岳麓書院データーベース」も構築中である。今後は、国内外の研究機構との交流やネットワークの構築を通じての、岳麓書院のさらなる発展が期待される。
明宗16年(1561年)に、慶尚道礼安県に建立された陶山書院は、創始者李退渓の学問的遺産を引き継ぐとともに、嶺南の南人政治勢力の中核に位置していた。陶山書院は他の書院と同様、祭祀機能と教育機能を兼ね備えている。祭祀には享祀と致祭がある。享祀は毎年春と秋に行われ、致祭は朝廷から礼官が派遣されて行われる。また、陶山書院のもつ社会政治的役割についても指摘された。陶山書院を中核とした南人勢力は、長く政治的中心から排除されてきた。しかし、仁祖4年(1626年)に発生した陶山書院院長の殺害事件などを期に、西人勢力などに対抗するかたちで南人を中心とする退渓学派の結束が固まり、嶺南における政治的公論の形成がなされるようになる。19世紀以降、書院における政治的・社会的役割は相対的に縮小されたが、とくに2001年以降、韓国国学振興院の開院などを経て、祭祀機能や教育機能の回復が試みられている。
大航海時代以降、ヨーロッパ特にアルプス以北の王侯貴族趣味として、ヨーロッパ以外の花を種子、球根、苗として本国に運ぶ慣習がひろまり、イギリスやオランダはその中心となる。その背景には薬草学やリンネなどによる分類学の発展があった。スコットランド人Robert Fortuneは、プラント・ハンターの代表的存在で、日本や中国などで幅広く活動している。また、沖永良部島のように、プラント・ハンターがユリの球根栽培を導入したのがきっかけで、球根の輸出生産拠点となり、やがて海外から球根を輸入し国内市場にむけた花や球根の産地へと変化した例もある。
懐徳堂は、1724(享保9)年大坂の有力町人「五同志」三宅石庵を迎え設立された。その後、一時期閉鎖されるも、1910(明治43)年に懐徳堂記念会が設立され、1916(大正5)年に大阪市東区豊後町19番地に重建懐徳堂が竣工し再興がはかられた。しかし1945(昭和20)年、大阪大空襲により重建懐徳堂は書庫部分を除き焼失してしまう。1949(昭和24)年、戦災を免れた重建懐徳堂蔵書は一括して大阪大学に寄贈され、「懐徳堂文庫」と命名された。
本講演では、「懐徳堂」の名称、施設、構成員、経営母体、教科書、カリキュラム、学則といった懐徳堂の具体像が紹介された。さらに刻書・成書といった出版事業や江戸幕府との関係、水哉館(中井履軒)の経書研究および自然科学分野での業績など、懐徳堂の研究にあたって多様な視点が示された。
讃岐高松藩出身の徂徠学者、藤沢東畡が大坂で創設した泊園書院(1825-1948)は、東畡の長男南岳、その子黄鵠、黄坡へと三世四代相継がれた漢学塾であり、その蔵書が黄坡の義弟、石浜純太郎(1888-1968)の紹介により関西大学に寄贈されている。本講演では特に、幕末明治期の思想状況と泊園書院とのかかわりをテーマに、二つの事例が取り上げられた。
1840(天保11)年4月1日、「清板二弁」、すなわち中国で出版された荻生徂徠の代表作『弁名』・『弁道』の入手を祝う賀宴が泊園書院にて華々しく催された。これは、単に東畡が、己の学派の祖・徂徠が中国で重視されていることを喜んだばかりでなく、徂徠学者が「寛政異学の禁」以降の日本で冷遇を受けた、いわば逆境の中での慶事だったからである。
明治期に入ると、藤沢南岳は自らの徳教重視の教育理念をもって度々政府に建白し、日清戦争後、文相西園寺公望に宛てた「上西園寺公書」はその一例である。南岳の主張は結局聞き入れられなかったが、『教育勅語』発布後の教育界における熾烈な思想闘争の一幕がここに見て取れよう。
明治期における漢文教育の変遷を中心に、昭和初期の教育制度改革以後の問題にまで言及された。漢文教育は作文教育を根幹としており、漢学塾においては論理的思考に基づいて日本語の文章を作成するための教育が行われていた。明治初期に東京開成高校が法理文の3学部からなる東京大学に改組された。東京大学は欧米近代の学術を身に付ける洋学を中心としていたが、教育カリキュラム上国語教育としての日本語文修得が課され、その根幹に「漢文」教育が置かれた。中村正直や三島中洲らが漢文学の講師として、東京大学における漢文教育に携わった。しかし、東京大学が帝国大学になると、漢文作文科目が廃止される。国語概念が成立していくことによって、日本語の中に漢文が含まれていたという事実そのものが放棄されていったのである。これは教育上の大きな断絶と言えるが、こうした断絶は、戦後の教育制度改革と教養主義の崩壊という現象においても見ることができる。
日本思想史の立場から、韓国、中国、日本の書院の相違点と共通点について確認したい。日本が儒教を取り入れたのは17世紀以降と考えられており、東アジアにおいては後進国である。また、中国や韓国と類似した教育システムの誕生は、明治以降に確立された中央集権的な教育制度の確立を待たねばならない。さらに、日本の多くの書院は必ずしも純粋な民間教育学校ということはできず、中国や韓国の書院とずれが生じる。一方、民間学校としての書院に近似した教育制度としては、日本においては藩校を挙げることができよう。こうした相違点と共通性を踏まえて、如何なる知がどのように流通するのかという「知の商品化」という問題軸を設定したい。日本における儒学の発展は、都市部の武士によって担われていたが、中国や韓国では郷村社会の郷紳によって担われていた。そうした社会経済的実態の違いから、東アジアにおける「知の商品化」の問題を考えることができる。