

冒頭、「「東方学」の揺れ」と題した『東方学』所収対談の抜粋は、発表終了後の討議に恰好の材料を提供した。特に「顕微鏡的」細部を穿つような研究と「望遠鏡的」視野を広く取った研究とのバランスをいかに保つか、話題は文化交渉学専攻における研究教育の在り方にまで及んだ。
後半は、まず東アジア宗教研究における現状について。東アジア地域の文化交渉の事例として最たるものとなり得べき仏教であるが、研究史上においては文化交流的な視点が敬遠されてきた。道教もその特質ともいえる雑多な性格が研究上かえって非難されかねないという状況である。翻って両者は現在の中華圏では「中華教」というべき混合宗教となって信仰されているが、これを適確に捉えるには従来の研究姿勢では不十分といえる。
しかしながら昨今、仏教・道教研究において文化交流を主軸に据えた研究が現れ始めている。このことからも察せられるように、研究アプローチの変化は現に起こりつつあり、ここに東アジア宗教研究における新たな方向性を見出すことができるであろう。
本報告は、研究成果を効果的に発信する上でのキー・ドキュメントとキー・ワードのもっている重要性を、実例で示すことを主眼とするものである。
取り上げた主な実例は、エール大学古文書館で発見した、下田密航を断られた吉田松陰がペリー側に出した嘆願書(「第二の投夷書」と名づけた)である。そこに記された松陰らの英雄的気概や監禁実態が、ペリーらの同情を呼び寄せ、幕府側に極刑をしないよう要請する行動に向かわせたという従来看過された記述を、『ペリー提督日本遠征記』から見出し、国益が優先か、それとも人道配慮が優先かという選択に揺れているアメリカ外交の一貫したジレンマを読み取った。
この他、東京都立中央図書館井上文庫所蔵の、ドイツ流の国家主義者井上哲次郎がイギリス流の自由主義者で井上の師でもある中村正直『敬宇文集』に書いた批判的欄外書、本学内藤文庫所蔵の、1912年内藤湖南の奉天調査時の筆談記録に記した清末の友人で民国の初代財政総長になった熊希齢への思い遣り的文言(それが翌年総理になった熊のために『支那論』を執筆したことの重要な裏づけになる)も取り上げられた。
なお、COEの研究方向への提案として、関大の学術資産や研究蓄積を十分に活用し、構成員全員の業績と興味を最大公約数的集約されることをコンセプトとし、具体的には東アジアの書院研究、近代的東洋学(日本研究も含む)の学術遺産、長崎・対馬・薩摩=琉球などを窓口とする近世対外経済文化交渉史という3本の柱を提案された。
フエは中部ヴェトナムのフオン川岸に位置した閑静な都城都市である。フオン河河口には潟湖もあり、海域とのつながりも考察する必要があろう。もともとは、オーストロネシア語族のチャンパの領域であったが、13-14世紀以降ヴェトナム封建王朝の支配下となり、17世紀末に、南進する広南阮氏が拠点として以来、1945年まで、政治中心地機能を果たしており、伝統文化・慣習がよく残っている。北郊外にある外港であったタインハー・バオヴィン地区は、かつての交易拠点で、現在も祠堂、関帝廟などの伝統建築や若干の華僑などが残っている。また、都城に東接するChi Lang通りにも華人会館などが残っている。潟湖沿岸地区化州城はチャンパの都城がヴェトナム封建王朝に再利用されており、異民族間での文化継承のあり方においても注目される地域である。の当COEプログラムの調査可能性を上述都城域郊外で行った。
ヴェトナムと周辺域で、考古学・物質文化から文化接触・文化伝播・文化交渉などを考えるテーマや調査の枠組みを挙げた。銅鼓は南中国や東南アジアで 2000年以上の利用史を持ち、時代とともに様々な方向へ伝播・変容する儀器である。類似した脈略で使用されることもある銅鑼は、南中国から東南アジアで発達し、日本・朝鮮まで伝わった楽器で、起源・伝播・変容・使用脈略の比較研究が望まれる。~ 14-16世紀の東南アジア産陶器や東南アジアの沈船等に出土資料は、東シナ海や東南アジア交易の担い手、ルートや実態を解明するきっかけとできること。都城遺跡や各宗教遺跡、さらには墓制などをヴェトナム、広西、雲南、海南島などで比較し、文化の変容と交渉や文化解釈を理解する比較調査必要性がある。~ また、ディシプリン形成のために東南アジアにおける中国化とインド化の問題を併せて研究することや、文化の伝播・変容を物質文化単位あるいは複数民族間での研究を行い、パターンとして解明することを提案した。